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女性管理職サラリーマンが会社を辞めることを決めた|これまでの経歴

 

サラリーマンが会社を辞めることを決めてみた|これまでの経歴 ということで、決意表明の意味もあって書き始めます。

私、現在41歳。家族は旦那と5歳の娘。

地方の中小企業で12年間管理職として働いています。

■41歳・女
■家族:夫・5歳娘
■中小企業の管理職(課長)
■年収:約450万
■業種:製造業
■職種:ECサイト管理者・WEBマーケター・WEBライター

中小企業で、ころころと課の名前も変わるし、それこそ「マーケティング」課というものも今年に入ってできたものなので、しっかりした社内体制ができているというわけではないです。

私のざーっくりとしたこれまでの経歴を。興味なければすっ飛ばしてください。

 

会社を辞める女性管理職サラリーマンの経歴

■地方4年制国公立大卒
■地元から離れたくないというだけで就職活動という就職活動もせず自動車メーカー関連会社に入社
■組織に入ると上を目指したくなる気質発見。1年で役職つけたる!と格闘
■2年目に役職もらうも日付変わってからの帰宅が続き「過敏性腸症候群」に(-5kg)
■仕事大好きマンになりつつあったが、ふと「海外住んでみたかったなぁ」という気持ちが湧く
■20歳年上の女性と親友になり「行っちゃいなよ」と肩を押され29歳で退職を決意
■アメリカ・カナダ・ベトナムを転々と移住しながらのんびり暮らす(+10kg)
■ふと「やっぱりサンダル生活からヒール生活のほうが合ってるのかも」と頭をよぎり帰国
■「営業職経験してみたいなー1年ぐらい入ってみるか」の気持ちで現在の会社に入社
■やはり仕事にのめりこむ
■無自覚のストレスからか不安神経症(パニック系)を発症(-15kg)
■2年後、関連会社の現旦那と出会い結婚
■3年間の不妊治療の末、娘を授かる
■管理職に昇格し気付けば12年

振り返ってみると、いやはや何も考えてない人生だなと思うのですが、実際は性格的にめちゃくちゃ悩むし、やるとなったら努力だけはするし、人生に手は抜けない、という人間でもあります。

これでもし自分が何かものすごくひとつのことに長けていたり、夢中になれるものがあったとしたら、成功していたかもしれません。(※何をもって成功かは人それぞれですが)

例えば、中学の頃は英語をとにかく毎日、ノートの端から端まで書きまくるという勉強法で、英文コンクールに学校代表で出場したことがあります。
30年前、まだまだパソコンがそれほど一般的ではなかった頃、タイピングにはまり、家に帰ってはe-typingに何度も何度も挑戦し、最高ランクを獲得したこともあります。
また、一度とある大学に入学したものの、もっと上を目指したい!という気持ちが湧きおこり、親に頭を下げ(?)半年で退学、出身高校に舞い戻り、高校生と一緒に1年間授業を受け、翌年無事入学しました。

なんだかしょぼいマウントのようになってしまいましたが、単純に、私は自頭がいいわけでもなく、何かが降ってきたら猛進にやるタイプ、ということだけここではお伝えしておきます。

こんな人生を歩んできた私は、大企業でバリバリでもなく、何かモヤモヤとしたものを抱えながら生きている41歳です。

もっと大学も就職もよくよく考えて動いていれば、違った人生になったことでしょう。でもこれも私が選んだ人生です。いい経験だったと思っています。

生まれ育った家族のこと

自分自身もそうですが、周りを見ていても生まれ育った家族の影響は本当に大きいと思います。

長男(長女)・次男(次女)・末っ子などでも違うといいます。親の子供へのかかわり方やいろいろな環境もすべてが私を作っていると思います。

そんな私の家族はちょっぴり特殊。

■父:営業マン兼 絵本・小説作家(PTA会長や自治会長などをしてきたタイプ)
■母:とっても普通の人(穏やかでのほほんとしている)
■兄1:WEB関係の会社経営
■兄2:アーティスト(絵)

ちょっぴり変わった環境の末っ子として、本当にかわいがられて育ちました。

父は根っからの営業マンで、子供3人を育てるために、趣味の絵本作りは片手間に、しっかりと稼いでくれました。そのおかげでとても裕福というわけではないですが、大きな苦労なく、3人とも大学まで行かせてもらうことができたと思っています。

今は定年を迎え、絵本や小説を書いては細々と出版しています。

そんな母を専業主婦一筋で支えてきた母。感覚としては昭和なので、私ががむしゃらに働くことへの理解はあまりありませんが、忙しく出張だらけだった父の不在時も、3人の子供の世話をし、美味しい料理で毎日私たちを迎え、穏やかな家庭を作ってくれました。(更年期は怖かったけどね)

さて、私にとって何よりも影響が大きいのは兄たちの存在。

小さい頃から兄1はパソコンいじりが大好き。まだパソコンが世の中に出はじめたころの時代です。パソコンを分解して組み立てたり、プログラムを組んで簡単なゲームを作ったり、パソコンとともに生きてきたような人です。

実はこれを書いている今日の朝、兄1が救急車で運ばれたという連絡を受け、私も仕事を早退し急いで家族全員でかけつけたところ、「過労」からの体調不良とのこと。集中治療室のベッドの上でお医者様に「仕事が好きというより、パソコンが好きなんですよねぇ」と言っていました…。(ほっとひと息)

そんな兄1は大学はアメリカの大学に行き、そのまま10年ほどはアメリカに住んでいました。十数年前に帰国し、WEB関係の会社を立ち上げ今に至りますが、パソコンに目覚め、パソコンとともに生きてきた人生です。

兄2は全く違う世界の人。高校から美術を学び、それとともにスケボーなどのストリートの遊びにハマり、スプレーアートの世界に沼っていきます。大学も芸術科に進み、卒業後はバイトすらもしない、スプレー1本で生計を立てると決めた人です。今は国内外で声がかかるようになり、筋の通った仕事をしています。

まだ大学卒業後間もない頃、「収入源は作らないの?」と問うた私に「どこかでお金稼いでしまったら、この道で食っていくんだって気持ちが揺らいじゃうから。死ぬときまでスプレー持ってたいんだよね」と言った兄。

アートの世界で表現者として筋を通している人生です。

家族のなかの私

家族が私を作ったと言いましたが、私はこんな家族に囲まれ、大きく大きく影響を受けてきました。影響を受けてしまったのは、筋の通っていない人間だからかもしれません。

やればなんでもそれなりにできるタイプの人間ではあると思いますが、どうしてもこれが好きだ、絶対これをやってやるという、人生の軸みたいなものがなく生きてきてしまったのです。

優等生タイプの兄1に憧れ、勉強法は兄1に教わり、その通り、ある程度優等生として進んできた小・中学時代。
高校受験をするというときに、若干羽目を外している兄2の高校生活にも憧れ、兄2の高校へ一旦出願。
すると既に渡米していた兄から電話が1本。「お兄ちゃんの高校行って、生徒会やりなよ」
この一言がきっかけで「それもいいな」と出願締め切り前日に変更。
大学はたまたまではありますが、兄2と同じ大学の別の科に進みました。

両親や兄たちの姿を見て、私も本書いてみたいな、会社立ち上げたいな、芸術の世界(私はカメラ)で生きていくのもいいな、料理もいいな。
何かに突出したものや夢中になれるものがないからこそ、心が揺らぎ、決め手なく、あれもこれもやって。

家族に大切にされたからこそ、家族を大切にしたい気持ちも強く、できるだけ親のそばにいる生活を選んできました。その上「コレ」といったものがないから、近くにある人生の選択を選び、その都度兄たちを見ては「私も何か爪痕残す人生を歩みたいな」とモヤモヤする。

それが私の40年だったと思います。

とはいえ、たぶん人一倍恋愛も楽しみましたし、お酒もめちゃくちゃ飲みましたし(笑)、一念発起して海外移住というひとつの「憧れ」も、たったの1年ですが叶えることができました。

結婚し、かわいい子供にも恵まれ、管理職としてある程度の裁量権のある会社で育てやすい環境(※ここは後ほど)にいるのに会社を辞めるなんて。
親や同僚にも言われます。

でもね。

40歳を超え、ある日頭をよぎったのです。

「人生一度だぞ」

お金はもちろん必要です。長く辛い不妊治療を経験し、子供を授かれたということだけでも本当に幸せです。そういうこともひっくるめて40歳、自分の人生を改めて考えるときがきたように思います。

40歳は折り返し地点ともいわれる年齢ですが、いつ死ぬかなんてわからない。
折り返し地点なんて、とっくの昔に過ぎている可能性だってあるんです。

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